建久7年(1196)、伝承では豊後国の守護大友能直(おおともよしなお)の家臣、高田重定に高田の地が与えられ、ここに城を築いて高田城と名づけたといわれてます。それ以来、17代約400年間続いたといわれる高田氏の統治は、安土桃山時代に入り大友氏の没落とともに終わりを告げました。
文禄2年(1593)から翌3年にかけて、豊臣秀吉は豊後国を小国に分け、竹中重利(重隆ともいう)を入封させ高田城主に。その重利(秀吉の軍師 竹中半兵衛の従兄弟)は増修築により高田城を拡張しています。高田城は桂陽小学校(市内中心地)のところにありましたが、完成された城ではありませんでした。江戸時代に入り関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、手柄のあった竹中氏を豊後府内(大分市)に移封しました。
その後高田の地は、中津城主の細川氏が治め、寛永9年(1632)からは、龍王城主(宇佐市安心院(あじむ)町)となった松平重直(家康の曾孫)の領地になり、やがて居城を高田城に移し、城や城下町の完成をめざしました。ところが正保2年(1645)その松平氏は木付城(杵築市)に転封となり、その城は廃城になってしまいます。高田の地は江戸幕府の領地(天領)にり、木付城主松平氏の預り地になったのです。
そして寛文9年(1669)、丹波国(京都府)福知山城主松平忠房が島原藩主(長崎県)になると、高田の地は島原領の飛び地になりました。
こうして高田と島原との結びつきが生まれたのです。島原市の本光寺からは、豊後高田との関わりを記した資料が大量に発見されています。
島原藩は高田城址旧本丸に豊州陣屋を置き、明治維新まで約200年間高田の地を統治しました。江戸時代は武家諸法度という法令により一国一城とされ、大名は領内に二つの城をもつことが許されなかったため、島原藩主は高田に城を築くことが出来ませんでした。
真玉や香々地も大友氏の支配下にあり、真玉は真玉氏、香々地は田原氏が統治していました。その後、関ヶ原の戦い以降は、高田と同様に度重なる城主の交代や幕府領・島原領・延岡領などの預り地・飛び地の時代が続いて明治を迎えています。