豊後高田市について

国東半島・豊後高田市の歴史と魅力

大分県豊後高田市は、古い時代が息づく町。
千年の時を越えて受け継がれてきた美しい自然、六郷満山(ろくごうまんざん)文化の歴史が織り成す豊かな風土、古い町並みや伝統行事など、古き良き時代を知り、触れることができる町です。
きっと心に残る何かに出会えるでしょう。

豊後高田市の地勢

大分県北部の国東半島の北西部に位置し、周防灘に面しています。西は宇佐市、東は国東市、南は杵築市と接し豊かな自然と温暖で過ごしやすい瀬戸内式気候に属しています。

大分市まで約60km、北九州市まで約90kmで両市に比較的近い距離にあり、生活面、文化面等では中津市・宇佐市・福岡県豊前市との関係が深く。経済的に中津市を中心とする小規模経済圏の中津都市圏に属します。
地域の東部から南部にかけては、西叡山、猪群山、屋山、応利山、中山仙境などの山々が連なり、国東半島のほぼ中央の両子山から、放射状に谷や峰々が延びた地形となっており、その谷間を桂川、真玉川、竹田川が走り、河口付近に市街地が形成されています。

域内は、瀬戸内海国立公園及び国東半島県立自然公園を擁し、山間部及び海岸部の自然景観や六郷満山文化ゆかりの史跡、世界農業遺産や農村集落景観、花の岬長崎鼻など、豊かな自然と歴史的文化などの地域資源が豊富です。市花はコスモス。
市木は柿です。

豊後高田市の歴史

当地域は、奈良時代末から宇佐神宮(古くは宇佐宮といわれ、通称宇佐八幡(宮)ともいわれる)の影響を強く受けており、平安時代には宇佐神宮の荘園として、その経済力を背景とした独特の山岳仏教文化「六郷満山文化」を発祥させました。また、当時は海路交通により関西方面との交流が盛んであったため、都の文化の影響を直接受けたものと考えられます。

鎌倉時代から戦国時代まで、国東半島地域の武士団の瀬戸内海への根拠地として、さらに明治以降においては関西地域への内海航路の拠点となるなど、歴史的には西瀬戸地域の交流の結節点の役割を果たしてきました。
その後、昭和にかけて市町村合併が行われ、昭和29年に豊後高田市、真玉町、香々地町の1市2町が誕生しました。さらに高度成長に伴う我が国の産業構造の変化により、都市部への人口流出や過疎化、高齢化が進行したため、新たな時代の変化に対応すべく、平成17年3月31日に1市2町が合併し新生「豊後高田市」が発足しました。

奈良・京都に次ぐ仏の国

古代(~平安時代)の国東半島は、六つの郷「来縄(くなわ)・田染(たしぶ)・伊美(いみ)・国東(くにさき)・武蔵(むさし)・安岐(あき)」に分かれていました。この六郷の里のほとんどは、九州きっての大領主でもあった宇佐神宮の領地(荘園)となり、その影響下で山や谷の奥深く六郷満山文化と呼ばれる仏教文化の華が咲き誇りました。宇佐神宮は、神社の境内に弥勒寺(みろくじ)と呼ばれる大寺院を擁し、神と仏が一体となって一つの社寺を形成。即ち、宮寺様式や神仏習合がここから発祥したといわれており、その弥勒寺の僧たちが修行の場に選んだのが、ここ国東半島の山や谷だったのです。

こうした山や谷の霊場はやがて寺院となって胎蔵寺(熊野磨崖仏)・長安寺・応暦寺・天念寺・無動寺・霊仙寺、宇佐神宮が領主の威光を示すため領地(荘園)内に開いた伝乗寺(真木大堂)・富貴寺など、その数60ヶ寺以上を擁する一大寺院群となり、奈良・京都に次ぐ千年の仏国として六郷満山文化が開花しました。富貴寺大堂(阿弥陀堂建築)は大分県に四つある国宝のうちの一つです。

高田の領主たち

建久7年(1196)、伝承では豊後国の守護大友能直(おおともよしなお)の家臣、高田重定に高田の地が与えられ、ここに城を築いて高田城と名づけたといわれてます。それ以来、17代約400年間続いたといわれる高田氏の統治は、安土桃山時代に入り大友氏の没落とともに終わりを告げました。
文禄2年(1593)から翌3年にかけて、豊臣秀吉は豊後国を小国に分け、竹中重利(重隆ともいう)を入封させ高田城主に。その重利(秀吉の軍師 竹中半兵衛の従兄弟)は増修築により高田城を拡張しています。高田城は桂陽小学校(市内中心地)のところにありましたが、完成された城ではありませんでした。江戸時代に入り関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、手柄のあった竹中氏を豊後府内(大分市)に移封しました。

その後高田の地は、中津城主の細川氏が治め、寛永9年(1632)からは、龍王城主(宇佐市安心院(あじむ)町)となった松平重直(家康の曾孫)の領地になり、やがて居城を高田城に移し、城や城下町の完成をめざしました。ところが正保2年(1645)その松平氏は木付城(杵築市)に転封となり、その城は廃城になってしまいます。高田の地は江戸幕府の領地(天領)にり、木付城主松平氏の預り地になったのです。
そして寛文9年(1669)、丹波国(京都府)福知山城主松平忠房が島原藩主(長崎県)になると、高田の地は島原領の飛び地になりました。

こうして高田と島原との結びつきが生まれたのです。島原市の本光寺からは、豊後高田との関わりを記した資料が大量に発見されています。
島原藩は高田城址旧本丸に豊州陣屋を置き、明治維新まで約200年間高田の地を統治しました。江戸時代は武家諸法度という法令により一国一城とされ、大名は領内に二つの城をもつことが許されなかったため、島原藩主は高田に城を築くことが出来ませんでした。

真玉や香々地も大友氏の支配下にあり、真玉は真玉氏、香々地は田原氏が統治していました。その後、関ヶ原の戦い以降は、高田と同様に度重なる城主の交代や幕府領・島原領・延岡領などの預り地・飛び地の時代が続いて明治を迎えています。

昭和の町

豊後高田市の中心商店街は、江戸時代から明治、大正、昭和30年代にかけて、国東半島で一番栄えた町でした。江戸時代から海上運輸の要所であり、昭和初期でも磯町には、京阪神に行き来した運搬船が多数停泊するほどでした。道路は五本の幹線が集まり、半島奥地や海岸部・宇佐方面への要所になっていた。しかし、だんだんと時代の波に取り残され、多くの商店街と同じく寂しい町になっていま
した。

そこで、商店街が元気だった最後の時代、あの昭和30年代の元気、活気を蘇らせようと平成13年に立ち上げたのが「昭和の町」です。当初7店舗からスタートした昭和の町認定店は現在40店舗ほどになっています。いまでは全国的に脚光を浴び、年間約40万人もの来訪者を迎える商店街になっています。昭和の町には現代人が置き忘れている心の交流があります。

石造文化財の宝庫

国東半島は、石造文化財の宝庫といわれ、豊後高田市にも、山・谷・里のいたるところに、そこの風景と一体となって存在しています。これらの石造物は、六郷満山の信仰と関係深いものや、武士の建立によるものも多く、この地で生活した人々の信仰心のあらわれであるといえます。

石造物を建てた発願者が、何のために作ったかを刻んだものもあります。国や地域の平和、そして仏教を信仰する世界の人びとが、みな平等に仏の御利益を受けられますようにと願うとともに、亡くなった両親の菩提(ぼだい)をとむらい、合わせて自分自身の極楽往生を願うなど、昔の人のゆかしい心を知ることができます。

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